2013/05/05

私の半生。その二。後半は猛スピード。

どーも、ウツミです。



本日も散歩日和。
良い天気で気持ちがいいね。

こんなことも、骨折しなかったら気がつかなかったことです。
昼間なんて出歩かなかったしw




というわけで、昨日の続きを。





登校拒否を決め込んで、悩みに悩んだウツミ女史。
中3から高1は、1割音楽を楽しんであとの9割はずっと考えごとしてましたね。
ドラムやるか、勉強やるか。


昔から、幾つかのことを同時にできない性格で。
これと決めたらそれしか出来ないと。

でもそれは、決めかねている間が一番辛いものです。
それが高校1年生の一年間でした。




両親とも話し合って、結果、私は医者ではなく、ドラマーとして生きていく道を目指すことに決めました。


これは後日談、最近の話になりますが、祖父の病院は後継がおらず、今年の5月で閉めることになりました。
仕事が大好きで、90歳を過ぎた今まで医者であり続けた祖父はホントにカッコいいです。
祖父が守ってきた病院を継げなかったことは、今でも少し申し訳なく思うことがあります。


これは余談ですが、戦時中祖父が医学生の頃に、音楽好きだった祖父がバイオリン片手に疎開先に向かい、兵隊さんに「こんな時にふざけてるんじゃない」と、ど突かれた話はいつ聞いても笑えますw
祖父の変人話は、これ以外にも書ききれないほどありますしw


そんな音楽好きの祖父、祖母も共に、私がドラマーとして頑張っていこうと決めた時から、ずっと応援してくれています。感謝。



家族や友達の気持ちをたくさん巻き込んで、私の新しい生活が始まりました。



進学校であった高校から、ヤンキーとオタクしかいない単位制の高校へ転入しましたw

それプラス、両親の勧めで某音楽専門学校にも、ダブルスクールで通い始めました。



高2.3年の2年間は、昼間高校へ、夜は専門学校へ、それ以外の時間はアルバイトと、休みなしでヘトヘトになりながら突っ走りました。



転入した高校にも、専門学校にも、もちろん友達や知り合いなど1人もおらず、始めの孤独感たるや凄まじいものでしたが、良い音楽家になるために、吸収できるものは全て、肥やしにできるものは全て取り入れてやるという意地のみで、とにかく必死でした。

あの2年間ほど、なけなしの根性が炸裂したことはありませんw



時間が経つにつれ、高校でも友達が出来、黒ギャル、化石的なヤンキー、前の学校でイジメられてちょっと歪んじゃったけど凄く優しいヤツ、などなどw、色んなジャンルの友達ができました。
黒ギャルが物凄く勉強頑張ってて、物理でトップ取った時は、見た目とのギャップに友達と共に多いに笑いましたねw
後にその黒ギャルちゃんは立派に大学に進学しました。


あと、もう学校の治安が悪過ぎて、授業に手ぶらでくるヤツ(そんなの当たり前なので、どの先生も貸し出し用の予備の教科書を何冊か持ってくる)、授業中にコンビニでおでん買ってきてアツアツを食べるヤツ(先生に注意されると、ロッカーに入ってたと謎の言い訳)、などなどこちらも日々笑えましたw



音楽の専門学校の方は、同級生は大体2コ上で(みんな高校卒業してからくるので)、追いつくのに大変でした。


昨日のブログに書きましたが、とにかく基礎的なスティックコントロールなど一切やったことがなかったので、先生が思う、まぁこれくらいは出来るでしょ?っていう課題も全然出来なくて。

授業の始めの方は、ドラムパッドでひたすらスティックコントロールだったので、超劣等生。
先生にイライラされてましたね、出来なさ過ぎて。


だからもう必死でやりました。
毎日毎日スティックコントロールの練習。
帰宅したらドラムパッドで、夜中は布団で、暇さえあればスティックコントロール。
ドラムセットなんて触れなかった。


まぁ、それでもスティックコントロールでは1番取れなかったですね。
嘘みたいに速く正確に動くやつとかいるもんで。

今だにそれが悔しいから、今でもスティックコントロールの練習はやり続けてます。
いつか越えてやる、と。


そんな風に思うのも、専門学校で1人の師匠に出会ったからでした。


私の授業を受け持っていた、見砂先生。


見砂先生がある日の授業後、私がどんな経緯でこの学校に通うことになったか、今どんな生活をしているか、などたくさん話を聞いてくれました。

そして、毎回の授業の後に、特別にマンツーマンで教えてくれたのです。


毎回の授業の課題とは別に、私がこれからの課題に困らないように少し先の課題を教えてくれたり、全く別の私に合わせた課題を用意してくれたり、とても丁寧に指導してくださりました。

そこで言われたひとことが、今でも私を支えています。


「(ドラムに向き合い、練習していく中で)天井を自分で決めて、そこで完成だと思うな。天井を自分で押し上げて、まだやれるまだやれると、一つの課題にたいして視野を広く、目標を高く持ちなさい。鍛錬を重ねることに終わりなんてないんだよ。」



この言葉をかけてもらった時から、私のドラムに向かう姿勢は変わりました。
授業で課題を上手くやれて、先生にオッケーをもらったところが終わりじゃないということ。
その後も、その課題に一生かけて向き合い、誰よりも完成度を高めていくこと。

当たり前のことなんだけど、ダブルスクールとバイト、めまぐるしく過ぎる毎日の中で、しかも、劣等生だという焦りもあった。
だから、早い段階でその当たり前のことをわかりやすい言葉にして伝えてもらったのは、あの時の私にとって本当にありがたかったです。



これをきっかけに、それまでとは見違えるように、我ながら伸びていきました。
課題に取り組むことが楽しくなりました。
一つのリズムに私なりの解釈を持たせて、どんな単純なフレーズも、難解なフレーズも、自分だけのものにしようと取り組むようになったからでしょう。


専門学校2年生になり、オーディションに受かったり、発表会で賞取ったり、入学当初には考えられなかったことが次々と起こりました。

しかし、そこで驚きなのは、私がその時も超ヘタクソだったということです(爆)



専門学校に通う中で、上手いからなんなの?速く動くからすごいわけ?っていう、イライラみたいなものが私の中に生まれていて。
まぁ、私がそうはなれないという嫉妬も多少あってだとは思うのですがw


"上手いドラマー"じゃなくて、"なんかわかんないけど凄いドラマー"になりたいと思うようになったんですね。


要するに、最低限の技術を持って、あとはパンチでオーディションをパスして、パンチで賞取りましたw


その芸風は、BRAZILIANSIZEに入るまで特に顕著だったと思いますw




そんなこんなで、激動の2年間を終え、その後3年位はサポート稼業。
年間100本以上にライヴした年もありました。


そして、ひょんなことから長尾達樹、蛇石徹とCOLORS DEPARTMENT結成。

インディーズではありますがCDをリリースしたり、新人枠ではありますがROCK IN JAPAN FES.に出させてもらったり、ふざけたり、喧嘩したり、結果的に仲良かったりしながらw、3年間活動して、2010年8月に活動休止。
いいバンドよ、また時が来たら3人で演奏したいといつも思ってる。


COLORSでジャパン出させてもらった時、同じ日に出演してたカエラちゃんのベーシストで、BRAZILIANSIZEのギターボーカルのヨーイチさんに、COLORS活動休止ライヴの一週間前にナンパされw、L.iに参加。


からの2011年、BRAZILIANSIZE加入。


同じく2011年、光舟さんに誘われて、インストネオクラシカルメタルバンド・MAOW結成。


2013年4月、骨折。


今に至る。


という感じですw


後半めっちゃはしょったけどw、ま、だいたいこんな感じで生きてます。


後半のダダダーっと書いたところはまた改めてw



今後ともウツミをどうぞ宜しくお願いします。
笑えることがたくさんありますように。



ほいではまた。




写真はCOLORSが活動休止前に出した、アルバムリリース時のタワー渋谷店。
懐かしいなw
なかなか名盤なのよ。